ゴールデン懺悔
実家に帰るたびに、懺悔ほどでは無いがどちらかと言うと懺悔かもしれない程度に思い出すことがある。
私の実家の横には小さな公園がある。
小学生の頃はちょっとした花火大会(手持ち花火をやるくらい)や、うまい棒を配る謎の会などもその公園で行われていた。
しかし時間の経過とともに段々と遊具が撤去されてしまい、今は砂場と滑り台とよくわからない記念碑のみになってしまった。そもそも外で遊ぶ子供すらいなくなってきたような田舎だったので、遊具が撤去されることで特に困ったことは無かった。
私が大学生になる頃には、その公園で遊ぶ大人(成人)は私くらいになってしまっていた。
「なんで遊んでるの??」というような正論はさておき、別に遊んでいるというか、すべり台に寝そべってDSで遊んだりツイッターをやってたりしていただけだから……
さて、ご存知の通り私は大学卒業後の半年間は悠々自適フリーター生活を送っていたのだが、もちろん定職に就こうという気はあった。
定職に就きたいフリーターがよく陥りやすい心理としては「時間もあるし、資格とか色々取っておいた方が就職に有利かも」が挙げられる。私もその中の一人であった。
私が目をつけたのはTOEICだ。なぜなら英語は強いからだ。英語は強い。出来なくても生きていけるが出来ると強い。相手が素手の喧嘩に釘バットで挑むような心強さを感じる。
そうと決めたら行動は早かった。(時間だけはあるから)
テキストを買い、過去問を解き、そこそこ準備をして試験日を迎えた。
家を出る時に親にも「頑張ってね」と言われて送り出される。こんなことはセンター試験以来だった。
「うん」と答えて家の外に一歩踏み出した瞬間に、天啓のように私の中にひとつの感情が生まれた。
「今日は試験を受ける機運ではない」
私はその足で近所のお気に入りのパン屋に行き、それから家の横の公園に向かった。すべり台に腰掛けてそこでずっとパンを食べたりいつもみたいにツイッターをしていた。
試験が終わる時間になり、さらにそこから試験会場〜自宅までの移動時間を足したくらいの時間に帰宅した。
「おかえり」と迎え入れてくれた親は、試験を頑張った(公園でパンを食っていた)私のために私の好物を用意していてくれた。
「結果が返ってくるの楽しみだね」と送られてくるはずもない試験の結果を待ち続けるのだ。
テキスト代も試験料もすべて自分の給料から出していたので、特に金銭的な罪悪感は無かったが、もっと根深い、金銭で賄えない罪の意識がこびり付いて離れない。
でもその意識もそのうち忘れてしまうだろう。ならばせめてその公園の残りの遊具くらいは残しておいて欲しい。
実家に帰るたびになんとなく私はその公園に行き、懺悔にもならない感情を持て余すのだ。
本当はこのブログを毎月更新するのを今年の目標にしていたけど、先月まんまと更新を忘れたのでその懺悔とさせてください。
※この一連の話はオールノンフィクションです。現実が一番怖い